人生は

暗き夜道を前え進むがごとしです。

百歩先は

真っ暗で何があるのかわかりません。

五歩先がわかる勘があれば

過ちが少ないものです。

一歩先がわかる灯火があれば

過ちが起こりません。

過ちなければ何れ百歩先に

無事たどり着くことができます。


神は我々の命を奪うことが出来ますが、

歴史まで奪うことは出来ません。

我々の歴史は神ではなく

我々がつくるものです。

だから、この世に善い歴史を残しましょう。


見えない神仏に頼みごとを望むのは

大へん難しいことです。

大自然の法則はすでに決まっています。

それを神仏が間違っていると思うのは、

己の心のほうが間違っているのに

全く気づいていないからです。

突然、私は〈死に神〉にとりつかれました。

肉体的、経済的、精神的に追い詰められて

我が魂は八方塞がりのブラックホールに入り

この世に神や仏もあるものかと思いました。


三度の大手術、戦場で三度の命びろいをして

神や仏のご加護で生かされてきたこの命を

〈なぜ自らの手で断ち切らねばならないか〉の

閃きで死を思い留まりました。

このような閃きがあるのは

〈神や仏のご加護で生かされている〉ことに

気づきました。


〈平等〉と〈平均〉は違うものであります。

太陽の恵みはすべてのものに対し〈平等〉です。

太陽は大小異なる傘に対して、

大きな傘には大きく、

小さな傘には小さい影を〈平等〉といいます。

これが同じ影であれば〈平均〉といえますが、

そのようなことは有り得ないことです。


「平等に分けなさい」と言われたときに。

各々に同じ量を配ることは〈平等〉ではなく

〈平均〉に配った〉ことになりますから、

太陽の恵みの如く〈平等〉で配るべきです。


すべて人間は

〈未来はどうなるか〉はわからないのです。

神仏も〈未来はどうなるか〉わからないのです。

自分自身がどんなに正しく生きていても、

世間の各自が神仏の心に従わずに、

勝手気ままな振舞をする人びとが多いから、

神仏もどうしていいかわからないのです。


神仏は己一人の味方や誰の味方でもないのです。

やがて未来が到来したときに

神仏は我々の心がけや行為に対して、

正しい判決を下す名裁判官であります。