人の一生は食料の材料のようなもの、

多くあるうちは好みばかりをさきに食べて、

残り少ない余生になれば、残った材料を使い

〈如何に美味しいものをつくって食べるか〉を、

考える必要がある。


他人の〈夢〉を追ってはならない。

〈夢〉そのものは己の脳裏の中にあるものです。

であるから、他人の脳裏の中にある〈夢〉を

己の脳裏の中で組み立てることはできない。

だから、己がつくった〈夢〉は実現できても

他人がつくった〈夢〉は実現できる筈がない。

男児たるもの三つの責任から逃れてはならない。


一、悪い噂がたっているときは、

  かねがねの言動の因果だと反省して、

  善行を重ねる努力を続けることです。


二、世間から誤解されたときは、

  誠意をもって事実を伝える努力で

  責任を果たせねばならないのです。


三、善行をしても悪い結果がでたときは

  善処に全力投球することで補うものです。

ボケ老人の中には、

自分はボケたくないの利己的な人と、

ボケたら他人に迷惑をかけるの利他的な人の

双方のボケ症状の老人がいます。


利己的な老人はすでにボケが始まり、

利他的の老人は生涯完全にボケることはありません。


この世は〈自分しか信じられない〉と思っても、

他人様を信じなければ世渡りができないのです。

だから、誰を信じるかの判断ができる

老人になる以外は他に手立てはないのです。

この世の人世には錯覚という落とし穴があります。

その錯覚が良い結果のときは良いが、

大抵は悪い結果のときが多いものです。

又、その錯覚が良い結果のときであっても

喜んではならないのです。

錯覚はもともと意識に反しての結果であります。

そのうえ錯覚はボケの始まりでもあるから、

その癖をつけてはならないのです。


幸福も貯め込んでばかりでは腐ってきます。

その幸福を他人様にも分け与えておれば、

また新しい幸福が芽生え腐る心配がありません。

過去のことを忘れ去ることは、

例え嫌な悪い思いであっても

未来をも放棄することになります。


誰でもキヤンパスに

筆で上手に美しい絵が描けなくとも、

心の中のキャンパスには

上手に美しく夢の絵を描くことができます。

心の中で夢の美しい絵を描けないときは、

己の欲がわざわいして、心が乱れているからです。

キャンパスの絵にも心の熟練がいるように

魂のキャンパスにも夢の熟練を必要とします。

人生の目標よりは、

人生の道理を考えてみましょう。

何故ならば、

目標を変えるようなことが生じても、

人生の道理は変わることがないからです。


誰にも迷惑をかけずに暮すことが出来ても、

誰の世話にもならずに暮すことは出来ないのです。


賢い人は物事に窮すれば打開に全力投球し、

凡人はすべての苦境を他人のせいにして

逃れるための努力しかしないものです。